ありす野郎の腑

アホがなにか書いていますよ ※ひっそりと、さばいばーさんを応援しているよ

読書(精神分析統合理論)のこと。偶然の、、、

私は決して曖昧で中途半端な説明はしない。
私は私の詳細で緻密な統合理論を用い、徹底した説明行うことにしている。するとその中で、患者は主にふたつのことを知らされることになる。ひとつは病気の原因が患者自身にあるのではなく、患者の育った環境にあるということ。そして、もうひとつは、たとえ原因が自分になくても、その原因によって歪められた結果が自分そのものであるから、苦しくても自分が治療を受けなければならないということである。
つまり病気の責任は家族にあるので、家族も治療に参加させなければならないということ、ただし、歪んだ言動を抑止する方向へ、患者自身も努力しなければならないことを知らされることになる。

精神分析統合理論 著 新田信也 p354より抜粋)
頼もしい、なんと頼もしい医師の発言なのだろうか。小学生のころから私が求めていたような精神科医ではないですか!
ただありす野郎の各種障害は、少し落ち着いてきている。それなりにどうにか人並みに生き抜く術を身につけられるようにはなるものだと思う(思いたいよね )。治りかけても、その年齢がネックで人生をやり直すチャンスの幅の選択肢が、狭くなってしまう人もいるかもと思う。
家族間治療が期待できない環境なら、できれば自立したいと焦り考えることもあった
ありす野郎は、家を出ると母に「帰ってこい」と言われていた…。
何が言いたいかというと「帰ってこい」という言葉には、人間らしい情を期待してはいけなかったということ。
家を出るきかっけを忘れてしまいそうになる頃でも、期待しないこと。
家族間での治療を拒み続けるが、ありすの発狂時に限り「こんな娘の面倒をみております。わたしは、悲惨でしょう、わたしには、悪いところなんてないでしょう」と被害者面をする事には余念がなかった、そんな母親だった。自らが苦しむことになる診療の場合だけは、避け続けるのだ。本質的な問題を避ける。けどきっと母は自分と向き合うのが怖かったのかもしれない。
以前のブログで母のことを卑怯だと書いたのはそのため。けどいまは全くそう思っていないし、正直、卑怯だろうがそうでなかろうが、「偶然化」後には、もう意味のないこと。母の存在を否定しているわけではなくて。
被害者面をするだけ。被害者面をする、かつて自身もそうだった。自己憐憫が大好きだった
今は、母には母の幼少時に辛いことがあったことを知っている。
被害者であると同時に加害者側になってしまったということ(機能不全家族)。問題は、これだけではなかったのだけれど。
今現在、似たような環境にいる人には、それでも頑張って生き抜いて幸せになって欲しい。幸せを感じることなく育ったのだけども…という方も心配はいりません。偶然上手くいくこともあるので、それまではどうにもならないこともあるけど…。でも偶然は、必然でもあるから。
偶然ばかり書いていたら、ポールオースターの小説、偶然の音楽を思い出した。暗いけど面白かったような記憶がある小説。暗い気持ち浸りたいなら必読かもしれないしそうでないかもしれないし、10年位前に読んだので内容は詳しく覚えてないの、ごめんなさい。
精神分析統合理論のことに戻ります。
あんまり著書から抜粋してしまうのは著者の方に申し訳ない気持ちになるのですが…あと少しだけ…
著者の知識と経験と、たまにチラッと面白い人柄も文章にでてくるような感じで、何よりも治療中に著者が体験したことの意味をわかりやすく言語化してくれていた。だから自身に起こった偶然についても、よく理解できるようになった。とてもありがたい。
第二部の精神現象育成理論での
偶然化とは、人間社会の中で、自己を開放することを意味する。様々な能力を発揮してきた人間の精神の中で、つまり必然化(本質化)された世界の中で、私は憩うことができる。このように、自分の本質化できない領域を安心して任せることのできる人、これがまさに「第四段階の理想的対象」である。よって、最終的に尊敬させなければならない対象は「人類」である。「人は人を離れて人に非ず。」
私の感謝の対象は、自然でもなければ、生命でもない。まして、神仏などでもない。それは人類である。
そしてこの感謝がなければ、どうして破壊を防止することなどできようか!こんなことを言うと読者は思うかもしれない。
『世の中はひどい人達ばかりで、誰一人として信頼するに値しない。あなたのようなおめでたい人は、いずれ騙され、裏切られるであろう』と。しかしそのような心配は不要である。
なぜならば、だましや裏切りをどう処理するかということこそ、わたしの日常的な仕事だからである。
すでに、私は「信ずる心」と「疑う心」の平等性を知っている。

(一部を割愛 )
我々にとって、自然や生命は偶然の産物である。偶然の世界は、災害や疾病など危険に満ち溢れた世界である。だから、我々はその世界のすべてを本質化しなければならない。その代表が地球環境である。もしその本質化を正しく徹底させるならば、その究極において、本質化する側も、本質化される側も否定される。その否定が実現すれば、はじめて破壊が終焉することになる。そして、再び偶然の世界がスタートする。この再スタートした偶然の体験を、私は「偶然化」と呼ぶのである。
むろん、否定する前の偶然と、否定した後の偶然は、性質を異にする。それでは、どう違うか?そもそも偶然とは予測不能状態を意味するが、それに対する心構えが異なるのである。否定する前の偶然は、我々に不安や恐怖を感じさせるのに対し、否定した後の偶然は、我々に安心や自由を感じさせる。しかも、この違いは我々の徹底した本質化によって応じたものであるということを、我々はよく認識することができる。さらにその認識を共有することができる存在は、まさに人類だけである。よって、私はこの世界で解放され、この世界で自由を感ずることができる。不安や恐怖を安心や自由に変換することができるのは、ひとえに情動制御(快=不快)のおかげである。
だからこそ、私は情動系が知覚や思考系に比べて、遥かに重要な位置にあるということを知るのである。

精神的に健康な人なら、幼少時に身についているような当たり前のことが身につかない状態。
家族間治療を望んでいる方には、ネット上のプロフィールで現在民間病院勤務の新田医師を頼ってみるのも解決の糸口になるのかなあ。昔のありす野郎が、著者のような医師を知っていたなら、診療してほしくてクリニックを訪れていたと思う。
いまだって、診療していただけたらと思う気持ちがあるのです、、、著書によると私の場合は「4段階目」以降の治療経過が曖昧になっている気がする。のかどうか自分では、わからない。でもうまく行ってないことは確か。
あと、いま少し、もやっとしていることがありまして、、、ひとつだけ話を聞いていただけたらなあと考えていることがあるので…。
こればっかりは本職のかたからの助言を聞きたいのだもの!でもその前に精神分析統合理論 続 精神分析的根治療法を読んでみよう。(精神分析統合理論の続編らしい)
それはそうと、知らずに賞味期限切れの牛乳を飲んでいて月曜日から、お腹を下していた。目的地に着いてからもその後もひどかった。飲み切りパックを買っているからといっても油断しすぎというか、賞味期限くらいよく見なければ。
ゴロゴロいってましたもの、お腹…。

よくないなー。
本当は、いま何も発信するべき状態でないんだよね、この通りネガティブ過ぎる精神状態だから。
せっかくの良い本も、この文章では印象が悪くなってしまうかもしれない。
うっかり読んだ方の毒になりそうだし、この状態になっている原因がわかっていても、解決法というか対処法が困難なのね。2段階後退しそう、しかけてる。5:47眠れない…。


読んで下さってありがとうございました!